最近は、当事者による、様々な本が出ている。それまで、当事者の気持ちは、周囲の人が“妄想”するしかなかった。“普通”のことができないから、きっと何も分からなくなってしまった、何を言っても分からない、通じないと周囲は諦めて、彼らと意思を通じることは不可能だと閉ざしてしまった。

高齢者介護の世界で言えば、認知症、アルツハイマーの人の状態や気持ち。

しかし、これらの著書のおかげで、認知症、アルツハイマーの人への理解が広がり、それと共に、人権や尊厳も周囲の人が意識するようになってきたと思う。それまでの意識は、昔、障がい者を閉じ込めたり、拘束したりした時代と、そう変わらなかったのかもしれない。理解できないから、何を言っても無駄、縛って自由を奪うしかないと思われていた面があると思う。

例えば、これ。

著者の佐藤 雅彦さんは、もともと、中学校の数学教師、システムエンジニアとして活躍されてきた人なので、論理的に説明する能力が高い。若年性アルツハイマー型認知症となっても、その能力は衰えないから、こんな本が書ける。

この本もそうだ。

この本は、介護初任者研修テキストの「認知症の理解」の章でも紹介されている。

この方も、もともと、とても能力の高い方だったようだ。「46歳でアルツハイマー病の診断を受け、1996年オーストラリア政府の首相内閣省第一次官補を退職。1998年前頭側頭型認知症と再診断。1999年ポール・ブライデンと再婚」という経歴の方だ。

こういった方々だけでなく、頭のいい人は、自分が出来なくなったことを、工夫して、別のことでカバーするので、そうなる前と変わらない生活が出来たりする。その多くは、自分の才能で道を切り開いてきた人が多いかもしれない。できないこと、分からないことが出来ても、すぐに、その絶望やショックから立ち直る。できないことは仕方ない、分からないことは仕方ないと諦めて、出来る方法を見つけていく。

アルツハイマーや、認知症の人が、訳の分からないことを言ったり、おかしな行動をするのは、これまでと同じことができなくなった自分、分からなくなった自分を隠そうとして、周囲から見るとおかしな行動になったり、ショックのあまり、感情や言動のコントロールが効かなくなっていたり、うつになっているケースが多い。要は、変わった自分を自分で受け入れられず、拒絶する。今まで外面をとりつくろって、うまくやってきたと思っている人が特にそうなるのかもしれない。

実際、アルツハイマーや認知症の人のおかしな行動(例えば、徘徊や、決まった時間に必ず何かをしようとするなど)には、意味があることが多く、その人の思いをくみ取って、つきあってあげると収まってきて、なくなることも多いのが分かっている。「なんでそんなことするの!そんなことしないで!」と責めると、混乱してしまう。今までしてきたように(過去の生活で日常的にしていたことで、自分の役目と思ってしようとする)してるだけなのに、理由が分からない、怒られる、責められるから、悲しくもなるし、ショックだし、頭ごなしに否定されて自信を失う、コワイ、知り合いも味方もおらず、世界でたった一人、知らない星に置き去りにされたような気分で不安でいっぱい(今、アルツハイマーや認知症でない人も、自分が一時的な記憶喪失になり、20年前の記憶で止まっているとイメージしてみてください。その頃、高校生の息子と朝早く仕事に出る夫のために、毎朝お弁当を作ってあげていたから、朝早く起きてお弁当を作ろうとすると、家族に「朝からゴソゴソするな!眠れないだろう!何やってるんだ!迷惑だ!」と頭ごなしに叱られる。弁当を作らなきゃと答えると、大きなため息をつかれながら冷ややかな目でみられる。それ以前に、自分の家族がいない、知らない人(実際には自分の息子だけど)から怒鳴られる。そんな感じです)

痴呆が世間で取り上げられはじめ、当初、ボケ老人と呼ばれていた時代には、何も分かっていない、何も感じていないと扱われていたけれど、実は、そうではなく、脳の伝達能力のうちの一部だけがうまく行ってないだけで、他の機能は正常に働いているということが知られてきた。

こんな例えがいいかどうかは分からないが、きっと、健常者が頭を打った時などに、一時的に記憶がなくなるとか、どうしても思い出せなくて気持ち悪い時とか、他の人が覚えているのに自分だけ覚えていないことがあったりとか、馴染みの町に行ったのに、すっかり変わってしまって一瞬自分がどこにいるか分からなくなった時の心細さ、長期休みが明けて仕事に戻った時にパソコンのパスワードが全く思い出せなくて焦った時とかの状態が、長時間、ずっと続くような感じなのかもしれない。

「ゴースト・ボーイ」という本も、意識ははっきりしているのに、身体が一切動かせず、声も出せずにいた少年の手記だ。12歳の時に、原因不明の病で、どんどん体が動かなくなり、話せなくなり、意識も朦朧としてきて反応がなくなり、“生きた屍”になった。しかし、10年ほどたった時、彼の意識ははっきりとしはじめ、正常な時と同じくらい目覚めたが、それに誰も気づかなかった。何も分からないと思われて、介護施設の職員から虐待を受けた。両親も、自分のことで目の前でケンカをして、ひどいことを彼に言い放った。でも、10年の歳月で絶望しきった周囲の人間は、彼の意識が戻っていることに誰も気づかない。動かない体の中で絶望を感じていたが、死ぬこともできない。

発達障害の方も、本を書き始めた。工夫をすれば、人に伝えられる術があることを知った方々が、工夫して本を書いてくれ始めた。

例えば、これ。自閉症の著者が、なぜ自分が飛び跳ねるのか、大きな声を出してしまうのかなどをつづった著書。

こういった本が次々に出版されることで、健常者は、身体・精神障がい者、発達障害の人々の、健常者とは違う“おかしな言動”は、狂っているからでもなく、何も分かっていないからでもなく、ただ、身体の一部の機能が思い通りに動かないから、自分の意志に反して、身体が勝手に動いてしまうだけだということが理解できるようになった。健常者と同じようにできない自分に落ち込み、申し訳ないと感じ、でも止められない自分の体や行動をどうしようもなく。。。という、障がい者たちの絶望や落ち込みも分かるようになった。

そうして、私たちは、彼らも私たちと変わらないことを理解し始めた。また、不幸にも、ほんのちょっと体や脳がうまく機能しなくなったために、そうなってしまっていることも。

そうなると、今健常である人々も、いつ自分がそうなるか分からない。昨日まで、思うように動いていた体や口や手足が動かなくなり、自分の意志を伝えれなくなったとしたら。。。。とイメージできるようになってきた。

今の社会では、自分の意志を【言葉で】述べられないと、意志がないものと扱われる。バカだと思われる。

実際、外国にいって、その国の言葉が分からず、ずっと黙っていると、その人は意見を持たない人として、軽んじられる。そんなことないよ!!という人も、自分の身を振り返って考えてみてほしい。何も話さず座っている女の子がいるとする。何を言っても、困ったように笑うだけ。そのうち、あなたは、こう思うだろう。“この子は何も分からないんだ”、“何も考えていないから、言うことがないんだ”。実際、アメリカに留学した友人は、そう言っていた。当初、英語が分からず、黙って座って聞いていると、そのように扱われるのが悔しくて、必死に英語を話せるように頑張った。話し出した途端、周囲の目が変わり、友人が出来たと。

これらの著書がではじめると、これまで他人事だと感じていた人も、“もし自分がそんな風になったら。。。” と思うと、ぞっとしたから、障がい者の人権や尊厳を強く訴えるようになった。なぜなら、自分たちだって、いつそうなるか分からないんだから。。。

しかし、自分が衰えていき、介護される側になることをイメージする人は、少ないのかもしれない。運悪く、事故や病気で死ぬ人はあっても、その他の多くの人が必ず迎えるであろう「穏やかな死」を実際に身近でみたことがないから、考えるのも恐ろしくて、あえて目をそらしているのかもしれない。

しかし、ほとんどの人は「穏やかな死」を迎えるだろう。そんな死の瞬間に、あなたは何を思うのだろう? それが、イメージできた時、きっと、今現在を生きる自分の生き方も、確実に変わるはず。

赤ちゃんで生まれ、しばらくは寝たきり、自分で歩くことも、ごはんを食べることもできない状態から、徐々に、歩きはじめる。そして、大人になる。

死に向かうということは、赤ちゃんに戻っていくことに他ならない。60歳の還暦で赤いちゃんちゃんこを着るのは、それを境に、赤ちゃんに戻って行くという意味だと私は思っている。純粋な赤ちゃんに戻っていく。誰かに偉そうにしたり、プライドやエゴにしがみつくのではなく、あらゆることを信頼して、委ねきる純粋な赤ちゃんに。

実際、身体も、赤ちゃんの発達段階の逆方向のように、進んでいく。歩けなくなり、動けなくなり、寝たきりになり、意識も夢心地になっていく。

意識も、赤ちゃんのように、ただ、あるがままを喜び、あるがままに委ね、思うがままに、泣いたら、きっと気持ちがいいし、きっと、そんな無邪気な老人は、世話をするほうもかわいらしく思えるだろう。プライドが高くて、偉そうで、文句ばかり言う老人ほど、かわいげのないものはない。世話する気にもならないのが、正直なところだろう。

かつて、NHK特集で100歳くらいのおばあちゃんがこう言っていた。それぐらいの年になると、ただ、朝起きて、食べて、寝るだけ。そんな人生は楽しくないだろう、かわいそうだと若い人たちは言うけれど、そのぐらいの年になると、ただ、朝目が覚めて、きれいな世界をみれるだけで幸せで満たされるんだとおっしゃっていた。毎日が幸せだと。そのぐらいの年になると、みんなそんな風に言えるんだろうか。自動的に、そう思えるようになるんだろうか。それは違うと思う。なぜなら、女は子どもを産むと、誰でも母性が芽生えて、よい母になると思われていたが、実際にはそうではないではないかw やはり、その人それぞれの生き方、生きる姿勢、考え方による。

私たちは、何かをしている、旅行に行く、誰かと話をすることの中にしか、幸せや満足感はないと思い込んでいるかもしれない。でも、世代によって、楽しいことも、嬉しいことも、幸せなことも変わってくることを忘れている。何かを持つ、何かをすることの中にしか、幸せはないと思い込んでいるのは、今自分がその世代だから。

誰もが、生まれた瞬間から、死に向かって生きている。人生の終末期には、赤ちゃんのように、誰かの世話になるのが当たり前。体が動かなくなり、しゃべれなくなり、自分の意志を周囲に伝えられなくなった時に、果たして、自分は、心平穏に、安らかに、委ねられるのだろうか。信じられるのだろうか。赤ちゃんのように、身体が動かなくても、毎日、心はワクワクと過ごせるのだろうか。

人の力なんていらない、一人でなんでもできる!と気を張って生きてきた人は、果たして、介護される側になった時に、心やすらかにいれるのだろうか。

人に委ねられない人が、介護される側になった時に、罪悪感を感じることなく、心平穏に生きられるのだろうか。

介護の現場で長く働いてきた先生が、こんな話を教えてくださった。

「お金のない人ほど、何か世話をしてあげればあげるほど、お返しをしないといけないと思って、無理してお返しを買って返そうとするから、どんなにその人が困窮していても、食べ物などを持って行ってはいけない。そうすると、その人は、ギリギリの生活費の中から、無理してお返しを買うので、結果的に、その人の暮らしをさらに困窮させることになる」

「感謝すればするほど、何かの形となるものでお返しをしなければと思って、毎回私のカバンに果物を入れてくる利用者さんがいた。仕方ないので、入れられないように、小さな鞄で行くようにしたけれど、それでも無理やりつっこもうとする。さらにカバンを小さくしたら、今度は食べ物でなく、お金の封筒を入れるようになったので、帰り際にポストに入れて帰り、直後に、受け取れないのでポストにお返ししておきましたと電話で伝えた」

「ものすごくお金が余っている利用者さんは、お金が余ってるから、誰かにあげたいくらいだと言うから、お金をどんどん使ったらいいんじゃないですか。旅行とかじゃんじゃん行ってくださいと言ったら、その利用者さんは、毎年海外旅行に行っている。その方は寝たきりなので、全介護つきでベッドで飛行機に乗って旅行するので、旅行費はとても高いんだけど、毎年それを楽しみにされていて、上手にお金を使っておられる」

さて、これらの話を聞いて、どう思いますか?

最初の話のお二人は、きっと、よくしてもらえばもらうほど、心苦しくて、その苦しさから逃れるために、罪悪感から逃れるために、自分の心を平穏にするために、お返しをしようとするけれど、全て拒否される。拒否されると、さらに不安になって。。。という繰り返しではないだろうか。

万一、受け取ってもらえても、そういう関係は、どうなるかといえば、多くの場合、受け取る方が、そのうちに、その方のお金を狙ったり、あてにするようになっていくのではないだろうか。

三つ目のお話の方のところには、気軽におすそ分けやプレゼントも、持って行けると思う。なぜなら、気持ちよく受け取ってくれて、お返しすることは、こちらの負担になることも分かっているから、何か物品を渡すとか、お金を渡すとかの形で、お返しをしてくることはないだろうと感じるので。結果として、豊かさが集まってくる人だと思うのです。

最初のお二人は、生活に困窮していて、どうにかしてあげたい、助けたいと思っている人が、周囲にいても、下手に手を差し伸べることができない。気軽に、おすそ分けやプレゼントをあげることができない。

不幸にも、事故や病気で、身体障がいや、精神障害になる確率は低いかもしれませんが、高齢者になるのは、ほぼ全員です。高齢者になると、身体は動かなくなっていくので身体障がい者になります。脳が働かなくなると、感情の抑制や判断が出来なくなるなどで、精神障がい者になります。アルツハイマーや認知症などで、責任能力が落ちてくると、発達障害の人々の扱いと同じになるかもしれません。

衰えと共に、意識もぼんやりしてきたらいいですが、意識ははっきりしていて、昔とそう変わらないかもしれません。

普段、鎧をつけて演じている人は、そうなることは恐怖でしかないでしょう。人をコントロールして、支配してきた人も。人の目を気にして自分を犠牲にしてきた人も。相手を脅して、思うままに操っていた人も。なぜなら、そうできるのは、自分の体がしっかり動いて、都合が悪くなったら、隠れることも、逃げることもできるから。無理して演じることもできるから。心身が動かなくなって、また、脳が今までのように働かなくなると、それもできなくなります。

そうなる前に、どんな状況でも、どんな場面でも、心を平穏にし、幸せでいられる自然な状態を取り戻しましょう(^^) というか、それが人生の後半に入ったら、必死に目指さないといけないところなのではないかと。若いうちから、そういう生き方、習慣、思考パターンが身についていれば簡単ですが、そうでない人が、頑固な高齢者になってからそのように変わるのは、ものすごく頑張らないといけないと思うので。。。

高齢者になると、うつが多いのも、そのためです。今まで自分の価値を仕事やお金ではかっていた男性、家事をすることでプライドを維持してきた女性など、そりゃそうなります。様々な喪失があるのが、その時期です。日頃から、“バカボンのパパ”意識で、生きていれば、きっと、どうなろうとも、生きているだけで幸せなのです。

あなたは、自分の人生の終末期に、寝たきりで寝返りも打てずに、排せつもお風呂も、誰かの手を借りて生きるようになった時、幸せでいれるでしょうか? そんな自分でも、誇りに思え、役に立っていると自負できるでしょうか。もし、その時をイメージしてみて、そう自分を認められないのであれば、きっと、今その状態の方々に対しても、そう認められないはずです。

未来の自分のために、受け入れてみませんか? 自力で出来ない人も、きっと大丈夫。フラワーエッセンスが力になってくれます(^^)