“脳内妄想”を、整理するため、呟きます。誰かに読まれることを前提に書いていないので、それでも読みたい方は、真剣に読まずに、読み流してくださいね~(笑)。

自分の人生の終末期を考えたことがあるだろうか。いや、死とは何かとも言えるかもしれない。

私たちが死と出くわすのは、多くの場合、病院だ。病気であろうと、老衰であろうと、最後は病院というケースが多い。ただ、あまりの医療費の圧迫から、政府が在宅介護を推し進める方針を打ち出したから、これからは、自宅で死を看取るパターンが多くなっていくと思うけれど。

住宅形式も変わって、各家庭だけでなく、家庭内のそれぞれの部屋も、プライバシーが維持され、同じ家に住んでいる家族でさえも、家族と共に過ごすことも減り、顔を合わさなかったりもするから、在宅介護になっても、その方の世話をするのは、家族のうちの誰かだけになっていて、その他の家族は、世話をしないどころか、部屋にも入らないから、一緒に住んでいても、全く顔を合わさない、どうなっているか知らない状況にもなりえる。

先日ふと読んだサンプルのマンガも、そんな感じだった。娘と同居している友人が死後3日経って発見されたという話。4世代同居だったそうだが、娘夫婦、孫夫婦、ひ孫は、それぞれ自分の生活に忙しくて、おばあちゃんが倒れて亡くなっていることに誰も気づかずにいたという話。創作だけど、世相はそんな感じではないかな。

日常生活で「死」を感じることがほとんどない。事故や急病で、急に亡くなってショックを受けることはあるが、急に亡くなるだけに、遺体はすぐにお葬式で焼かれ、あっという間で、実感が湧かないのではないだろうか。

老衰や長患いで亡くなる場合は、日々死に向かっている様子、もしくは、寝たきりで、何もできないのに、この人は何のために生きてるのだろう?など、周囲に、生きるとは?人生の意味とは?人生とはなんだろう?という、忙しい日常生活で、これまで考えたことのないような深いテーマを思いめぐらせるギフトを与えてくれる。「死」を考えると、自らの生についても、自然と考えるようになる。自分の生の終わりも考えるようになる。自分に持つ残りの時間のこと、生き方についても。

「死」に向かう人の時間の進み方は、とてもゆっくりだ。ただ、日常生活を必死にこなすためだけに生きている人とは、時間の流れ方が違う。だからこそ、立ち止まって考えさせてもらえる。自分の人生のことを。自分の死の瞬間を。

チンパンジーは、群れの中で、子育ての手伝いをしながら、子育てのやり方を学ぶ。群れの中で育たなかったチンパンジーは、自分が子どもを産んでも、どう育てていいか分からずに、育児放棄をして、子どもを死なせてしまうという。

人間も同じ。親がすることをしながら学び、こういう時にどうしたらいいかを学んで、身につけていく。

看取り士の柴田さんが著書にこう書いていらっしゃった。柴田さんのお母さんは、おうちで、おじいさんの介護をなさっていて、おじいさんのおしめを毎日変えていたのを見ていたから、そういうもんだと自然に思って育ってきた。だから、嫌だとか、やりたくないとか、考える発想も浮かぶ以前に、当たり前のこととして、普通にするので、ストレスも感じない。

そういうのを見て育ってこなかった私たちは、“なんで、私がこんなことをやらないといけなんだろう”、“なんで私ばっかり。。。”、“嫌だ” etc.という、モヤモヤや感情、戸惑いや、ストレスを感じるから、より一層介護がしんどくなる。

悩む、思い悩む、考えることは、実はとてもエネルギーを消費する。どっと疲れる。夜になるころには、バタンキューで倒れこむほど疲れてしまう。

柴田さんように、“古い世代の世話をするのは、看取るのは、当たり前のことだ”という感覚になるまで、そんな「死」に触れる経験のないまま育ってきた私たちは、どのくらいかかるのだろう。思考の抵抗や、葛藤、処理しきれない感情をバランスさせること。これには、かなりの時間とエネルギーを消費する。成長過程で、“朝起きたら顔を洗う”のと同じように、死を見送ること、看取ることは当たり前と刷り込まれてしまえば、抵抗も葛藤も感情も刺激されず、とてもラクなはずだ。それは、いわば「梅田に行きたかったら、歩いて駅まで行って、電車に乗る」のと変わらないのだから。生を全うして、生まれる前の世界に戻るのは、それと同じことなんだから。

しかし、いつも、自分専用の送迎車で送り迎えをされて育った人は、「自分の足で歩いて駅まで行って、駅で切符を買って電車に乗って、自分で駅名を確認して降りる」という作業は、とてもストレスだし、そういう“普通”の生活を、小さなころからしてきた人に比べると、消費するエネルギーはとても大きいはずだ。ご存知の通り、“考える”、“悩む”、“葛藤する”、“感情的な抵抗を捨てれない”というのは、実は、とてもエネルギーを使うものなのだから。。。 体を動かしていないから疲れないというものではなく、実は、筋肉の疲れよりも、脳の疲れがほとんどとも言える。

そんな「死」に触れる経験のないまま育ってきた私たちは、死に向かう人を、赤ちゃんの世話をするように、かいがいしく世話をすることは、とても苦痛となる。ただでさえ、忙しくて、時間がないのに、さらに自分の時間を奪われるのは、あたかも、空気を奪われて、呼吸ができなくなってしまうかのように苦しい。それと同じように、赤ん坊と接することなく育ってきた人が、過剰なストレスを溜めて、ありえない虐待をしてしまうのではないだろうか。

介護虐待も、第一位は、高齢者の息子が母を、第二位は、夫が妻を虐待するケースだけで、半分を占める。

高齢者の息子、夫の共通点は何か。

世話される立場だった人だということだ。ずっと母親や妻が、家事や日常の世話をしてくれたので、自分では、家事もしたこともないし、誰かの世話をしたこともない続柄の人。

そんな人が、自分も高齢者になって、心身がしんどくなってきた頃に、慣れない家事をし、寝たきりで動けなかったり、常識外の言動をするようになった家族の世話をするのだから、ストレスが溜まらない訳がない。

“女が家事をするのが当たり前”、“男は、どーんと動かずに座っているのが威厳であり、かっこいい”、“オレは偉い。みんなオレに従え、オレの言うことを聞け!”という信念で生きてきた男性にとっては、自分が誰かの世話をすることは、きっとプライドが傷つくに違いないから、怒りで頭がいっぱいになるだろうから、虐待にも繋がるだろう。そんな“思考”は、感情の暴走は、とにかく、エネルギーをものすごく浪費させる。人間は、疲れたり、睡眠不足が続くと、イライラして、攻撃的になる、人との共感能力が下がる、思いやりがなくなりやすいのは、誰しも知っている。そんな感情や、思考やイライラを毎日続けていると、エネルギーは枯渇するばかり。悪循環に入り込む。

困った人が目の前にいれば、助けるだけ。それだけでいい。なのに、頭でいっぱい考える。“声をかけて怪しまれたらどうしよう”、“この人変な人じゃないのかな”、“誰かに見られたらどうしよう” etc.  雨が降ったら傘をさすのと同じように、ただ、シンプルに、目の前で起こっていることに対処するだけでいい。でも、頭でっかちになって、そうできないのが私たち。そして、考えすぎて、疲れて何もできなくなる。そこらかしこで、こんな現象が起こっている。そろそろ、そんな頭でっかちを捨てて、素直になろう、シンプルになろう。そうなれば、みんな元気になる。思いやりが行動に繋がり、世界も変わっていく。

では、今の時代の介護される高齢者は、ただ、かわいそうなだけだろうか? いや、そうではないような気もする。なぜなら、その前の世代の、介護される世代は、自分が動けなくても、世話になっていても、もっと誇りに満ちていたし、堂々としていたと感じるからだ。

その世代は、きっと、その前の世代たちが、高齢者を家で世話するのも、みるのも当たり前で育ってきた。動けなくなっても、離せなくなっても、ボケても、おばあちゃんは、生きている限り、そのうちの権力者であり、尊重をされるべき存在であるというのを見てきて育った世代に違いない。

だから、介護される側になっても、誇りを失わないし、偉そうに(笑)していられる。

では、今介護されている世代はどうだろうか? ちょうど、高度成長時代。核家庭が増えた。親と遠く離れて暮らし、親の介護が必要になっても、生活を変えることができない。ユンケルのCMのような「24時間戦えますか?」の時代。今と違って、介護サービスもないから、多くの場合「24時間戦えますか?」夫は、ただ働いて稼ぐだけで精一杯。夫が、家族の世話をしたくても、させてくれないような時代だったから、他の家族も忙しいから、“嫁”一人に介護を押し付け、手伝わない。そんな世代が、介護される側になった。

その時代は、あまりにもみんな忙しすぎた。そのせいで、家庭も荒れたし、学校も荒れた。おそらく、介護しないといけなくなった親に対しても、“邪魔”、“迷惑”と、つい疲弊した心で思ってしまったのではないだろうか。

その時の後悔と反省が、今の介護される側の高齢者たちにあるのではないかと思う。もちろん、ご本人たちは、そんなこと思ってもないだろう。無意識のレベルの話だから。無意識のレベルの心の傷だから。

人間の関係は、いつだって、陰と陽。プラスとマイナスのエネルギーが引き合う。

介護する側が、“なんで私がしないといけないんだ”と思うならば、きっと、介護される側にも、“介護してもらって申し訳ない、情けない”と感じている何かがあるはずだから。卑屈にビクビクしていると、周囲はイライラしてくるものだ。いじめるつもりなんて、一切ない人を刺激して、イライラさせ、結果的に、自分がいじめられてしまう人も結構いる。あれはなんだろう? 自分が何もしていないのに、ビクビクされると、なんだか自分がその人をいじめる悪い人に思われているようで、嫌な気分になってくるからだと思う。何もしてないのに、悪者にされたような気分になって、相手を攻撃したくなるんだと思う。そういう人は、不器用で弱い自分を上手に隠して、優しくて、強い人間に自分を見せているから大丈夫と思って自分を安心させているから、そんな自分を喜んで受け入れてくれない相手だと、自分のメッキがはがされるんじゃないかと恐怖感を感じるから、そう感じさせる相手を消そうとする。

どっちの意識も変えないといけない。 介護されて申し訳ない と卑屈になる意識と、介護させられて私はかわいそうだ と思う意識の両方を。でないと、同種のエネルギー同士は引き合ってしまう。