「黄色の花ばかりの調合」というセッション風景のブログを書きました。

「お母さんはこんなにも頑張ってくれてるんだ」と書きながら、ある一部の方たちが心配になりました。

それは、いわゆる“毒親”を持つ方々が、こんな風に、瞬間的に思って、さらにエネルギーを落としてるんじゃないかと思って。

“そうよね。お母さん頑張ってるんだよね。私が我慢したらいいんだ”

これを思うと、自分のエネルギーを、さらに、“ギュー!”と緊張させ、内に押し込め、心はさらに麻痺して感性も直感も閉じてしまいます。

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毒親とは (Wikipediaより)

毒親(どくおや、英:toxic parents)とは、過干渉などによる児童虐待で一種の毒のような影響を子供に与える親のこと。母の場合は毒母(どくはは、どくぼ)、毒ママ(どくママ)と称される。また、父の場合は毒父(どくちち、どくふ)、毒パパ(どくパパ)と称される。毒母の別名として、モラ母(モラはは)と称されることもある。
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毒親は、子どもからエネルギーをずっと搾取し続けます。子どもがそれに気づいて、自ら断ち切らない限りは。

それは、あたかも、供給パイプを繋げられているかのよう(実際に、そんなパイプが見えるヒーラーさんもいます)。

親が子どものエネルギーを思う存分吸うための、一方向のエネルギーパイプです。

こんな詩があります。まさに、こんな感じでしょうか

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彼ら笑う   
           石川逸子
「この子は手足が長すぎる」
子を食う母
朝に晩にばりばりと子の手足を食う母
血みどろの口と
慈愛の瞳
「私はお前のためを思っている
いつもお前のためを思っている」

子は逃げる
短くなった手と足で子は逃げる
母の沼 どぶどろの臭い放つ 沼から逃げようと
もがく
「誰か来て 息子が逃げる
どうかあの子をつかまえて」
髪振り乱し わめく母
したたる涙
子は取り巻かれる
おとなしい隣人たちが子を囲み
次第にその輪をちぢめてゆく

「食べられたのは僕です
流れたのはぼくの血だけなのです」
「悪いのはお前だ」「お前だ」
ぼくはぼくの手足を守らねばならない」
「それでも悪いのはお前だ」「お前だ」

子はひとりぼっち 見方はいない
大勢の手が彼をつかみ
またつなぐ 彼を その母の足元近く

「ぼくはあなたを憎む」
「わたしはお前を思っている」
「ああいっそぼくはあなたを殺したい」
「わたしはお前を思っている」
うっとりと母はささやく
微笑みながら近付き
ばりばりと子の手足をじゃぶる

子は変わっていく
朝に晩に手足を食われて子は変わってゆく
もう子は逃げようとしない
彼は静かに朝焼けをみつめ じっと一日の終わりを待つ
「わたしの息子 お前はやっといい子になった」
「彼は死んだんです 母さん」
「まあ お前ったらふざけて」
上機嫌に笑う母
俯向く子

「ごらん 実にいい風景だ」
「ええ 心あたたまる……」
遠く語りあう隣人
誰も彼も笑っていた
死んだ 或いは死にかかった 子の魂はそっちのけに
笑っていた 実にたのしげに笑っていた

「家庭の詩」(「詩のおくりもの 3」、筑摩書房刊)より
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毒親に“食べられて”いる方は、先のブログ(「黄色の花ばかりの調合」)をお読みになった時、こう思うのだろうなと思います。

“私に対するお母さんの言動がどんなにひどかったとしても、
私のために、こんなに耐えて頑張ってきてくれたんだから私が我慢しなきゃ!!”

お母さんが一生懸命自分の人生を生きてこられているのは、明確です。

しかし、自分が一生懸命で余裕がないあまり、自分のことで精一杯

一生懸命頑張ってたら、何をしてもいい訳じゃありません。子どもを傷つけていい訳でも、トラウマを負わせていい訳ではありません。

そことそこは、分けて考えないといけないですよ。 毒親に搾取され続けている人は、そこが麻痺しています。目を覚ましてください。

お母さんがしんどいあまり、あなたにきつく当たったり、八つ当たりしたり、愚痴ばかりぶつけたりするのは、あなたの魂からエネルギーを奪うことになります。

誰でもそうですが、
自分が満たされていないと、余裕がなくなります。
自分が幸せでないと、満たされません。 
自分に余裕がないと、自分が生き延びるだけで精一杯になります。

水が飲めなくて死にかかっている時、自分の運命を呪い、自分をこんな目に合わせた人間に必ず仕返しをしてやる!!と怒りに燃えながら、砂漠をさまよっている時に、ひとすくいの水を見つけた時、はたして、あなたは、共にさまよい、必死に後ろについてきている子どもにニッコリと笑って「あなたに全てこの水をあげるわ。全部飲んでいいのよ(^^)」と言える余裕があるのかどうか ということです。

アブラハム・マズロー(1908年~1970年 A.H.Maslow アメリカの心理学者)によると、人間の欲求は,5段階のピラミッドのようになっていて,底辺から始まって,1段階目の欲求が満たされると,1段階上の欲求を志します。

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第一段階 生理的欲求 生きていくための基本的・本能的な欲求(睡眠欲・食欲・排泄欲)

第二段階 安全の欲求 危機を回避したい、安全・安心な暮らしがしたい(雨風をしのぐ家・健康など)という欲求

第三段階 親和の欲求 他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求

第四段階 自我の欲求 自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求

第五段階 自己実現の欲求 自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求
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なお、人間の三大欲、食欲、性欲、睡眠欲は、【煩悩】らしいですが、分かりやすく言うと、これらは、肉体が生き延びよう!とする意識です。何があっても生き残る!というサバイバルの本能が肉体意識に強く入ってます。

生理的欲求と安全の欲求は、成長過程で満たされることで、安定します(いわゆるインナーチャイルド)。この部分が満たされていないと、たとえるなら、野生動物が寝ているようでグッスリ寝ていないのと同じような状態になります。常に、意識のどこかが、すぐに逃げれるように警戒して起きていて、ビクビクしているような状態です。

この部分が癒されていない親は、自分が生き延びたい!という本能的な欲求が刺激されるので、危機的状況になると、子どもから奪ってしまいます。この部分は、本能的な部分に近いので、理性では抑えきれないほど強力です。

どうにか、理性で封じ込めても、いわば、肉に飢えた野獣がよだれを垂らしながら、ギラギラした飢えた目で、今にもとびかかりそうに、狙いを定めているのに、「私はいいのよ。あなたが全部食べなさい」と子どもに言っている状態です。いえ、もしかしたら、少ないエサでなく、子どもを見ながらヨダレを垂らしているようにも見えます。

これ、コワイですよ(笑)。 子どもは、“口ではそう言ってるけど、お母さんはいつ私を喰い尽くすか分からない” と本能的に気づきます。

でも、お母さん、頑張っているんです。他の野獣に負けないように、警戒し、時には血みどろの戦いを続けながら。

そして、子どもに言うんです。

戦って、相手ののど元を喰いちぎったばかりの血のしたたる口を開けて、

「お前のために、私は頑張っているんだ!」 って。

ああ、コワイ。。。

あ、繰り返しますが、これは、毒親からつけられた搾取のエネルギーパイプを外せないお子さんに向けての一般的なお話ですから、どなたか特定の方についてのお話ではありませんからね(;^ω^)

野生動物なら、子どもは、そんな親をみて、“私のお母さんは強くて、かっこいい!私もそんな大人になるんだ!”と尊敬するでしょうね。

でも、人間だったらどうでしょう? 人間が動物と違うのは、自分で生きる場所や生き方を選択できることです。負けても、死ぬことはありません。嫌な相手から離れることも、戦わずに、のらりくらりとかわすこともできます。

子どもは、親が大好きです。 親は幸せでいてほしい。いつもニコニコしていてほしい。親がニコニコしていて、余裕があって、幸せそうなら、子どもは、そのエネルギーに包まれて、幸せに包まれます。

どんなに一生懸命頑張っていても、親自身が幸せでなければ、そして、余裕がなければ、子どもの心を傷つけます。余裕がなくて、いつもエネルギーが不足している親は、無意識のうちに、子どもからエネルギーを奪います。発作的に、子どもを“食べて”しまう親も。。。。 子どもは、それを感じるから、コワいんです。

どんなに大切な家族でも、どんなに大切な人でも、自分を幸せにするのは、自分の責任。 自分が自分を幸せにする必要があるのです。

お母さんの幸せのために、自分を犠牲にしないでください。
また、そうすることで、自分を幸せにする恐れや不安をごまかさないでください。
自分を幸せにする責任を果たさない、そんな癖や傾向を、次の世代に引き継がないでください。

「黄色の花ばかりの調合」を読んで、自分の親に対して責任を感じたり、自分が我慢したらいいと思って、自分のエネルギーをさらにガチガチに緊張させた人、セッションにぜひ来ましょう(笑)